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ライプニッツ Gottfied Wilhelm Leibniz
1646年6月21日ー1716年11月14日



 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)は、人間の論理的思考が代数操作に還元できる可能性に初めて気づき、アリストテレス以来進歩が見られなかった論理学に、新たな発展期をも たらした。また、パスカルが到達しかけていた微分積分の原理を今日的な微積分表記を考案して一般化し、その後の数学の発展に大きく貢献した。ライプニッツ が1670年代に製作した四則演算が行える歯車式計算機は、その後の機械式計算機の発展を基礎づけた。さらに、かれが考案した1と0だけを使用する2進数 の計算法は、その後の数学者たちにより体系化され、デジタル・コンピュータの動作原理を支えることになる。


バロックの天才

 ライプニッツは、日曜日だった1646年6月21日の午後6時15分に、ライプツィヒでこの世に生を受けた。このドイツ中東部にあるザクセン地方の商業 都市は、30年戦争の脅威に晒され続けていたが、ライプニッツが生まれた2年後の1948年に戦争が終結した。ライプニッツの父フリードリヒ・ライプニッ ツは、ライプツィヒ大学の倫理学の教授であり裁判所の書記も務めていた。フリードリヒは1644年にライプツィヒの法学者の娘カタリーナ・シュムック (Katharina Schmuch)を3人目の妻として迎え、初めての子供としてライプニッツを授かった。1648年には妹のアンナ・カタリーナが生まれている。
 ライプニッツは父親の勧めで歴史書を読むようになると、読書に熱中して様々な書物を読破するようになり、父は自分の蔵書にライプニッツが近づけないよう にした。しかし、ライプニッツが6歳になった1652年6月に、フリードリヒは他界した。ライプニッツは1653年7月に、7歳でニコライ学校 (Nikolai-School)に通い始め、8歳になると独学でラテン語の文献を読み始めた。そして、親族のはからいで、1654年に父の蔵書がライプ ニッツに開放され、アリストテレスの論理学、スコラ哲学、神学書、ラテンの古典作家の作品をむさぼり読むようになった。ライプニッツはこうしてラテン語の 読み書きを習得し、1661年にニコライ学校を14歳で卒業する頃にはギリシャ語も読めるようになっていた。
 ライプニッツは1661年4月にライプツィヒ大学に入り、哲学と数学を研究し始めフランシス・ベーコン、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラーの科学 的業績に関心を示すようになった。そして、得意なアリストテレスの形而上学を話題にした最初の論文「個体の原理についての形而上学的討論」 (Disputatio metaphysica de principio individui)を著して、1663年に学位を取得した。ライプニッツは1663年の夏に1学期だけ、イェーナ大学の数学者にして哲学者のエアハル ト・ヴァイゲル(Erhard Weigel)に学ぶ機会をもった。ヴァイゲルは数学的証明法で、スコラ哲学の矛盾を明かにし、ライプニッツに深甚な影響を与えた。
  ヴァイゲルは1658年に「ユークリッドにもとづいて再構成されたアリストテレス分析論」(Analysis Aristotelica ex Euclide restituta)を著し、アリストテレスと近世のベーコン、トーマズ・ホッブズなどの哲学の共通点を調べて、哲学と科学の改革を目指していた。ヴァイ ゲルはユークリッドの数学的な論証法を用い、それまでスコラ哲学流の論証法に従っていたライプニッツに、数学的論証法に裏付けられた完全かつ普遍的な論理 学の必要性を認識させた。
 ライプニッツは1663年10月にライプツィヒに戻って法学の勉強を始め、大学に通いながらライプツィヒ宮廷裁判所で判事補の仕事をして実務経験も身に つけていく。ライプニッツは、修士論文で哲学と法律の関係に取り組み、体系的な論理で法律を扱うことを主張した論文「法律から集められた哲学問題の試論」 (Specimen quaestionum philosophicarum ex jure collectarum)を1664年12月に出版して、法学の修士号を取得した。しかし、かれは判事の職務には惹かれたが、弁護士の詭弁策術には嫌悪感 を抱き、現実の裁判に携わることを望まなくなった。

 
論理演算に先鞭をつけた「結合法論」

 ライプニッツは哲学の教授資格取得論文に取り組み、1665年に「結合に関する算術的論議」(Disputatio arithmetica de complexionibus)を著した。ライプニッツはこの論文で教授資格を取得できなかったが、その内容は1966年の小論文「結合法論」(De Arte Combinatoria)に発展し、若き日のライプニッツの独創性を世に知らしめることになる。
 ライプニッツは、概念を固定した範疇に分類したアリストテレスの論理学を調べるうちに、ある「すばらしい着想」が閃いたという。音譜のような特殊なアル ファベットで概念を表現する言語があれば、概念の関係によって表される全ての真理を発見でき、記述された文の真偽を決めることができる。かれによれば、全 ての命題は主語と述語の組み合わせに還元でき、関係というものは主語の属性を示す述語に還元することができる。従って、主語が与えられれば、全ての可能的 な述語を見つけることができ、述語が与えられれば、全ての可能的な主語を見つけることができる。
 ライプニッツ以前にも概念を記号で表し、一定の法則で真理を導こうとした先人がいた。しかし、かれは「結合法論」で、13世紀の修道士ラインムンドゥ ス・ルルスの「大いなる術」や17世紀のドイツの博物学者アタナジウス・キルヒャーの「大いなる知恵の術」が示した範疇表が、哲学の必要に沿ったものでは ないと結論づけている。ライプニッツは次いで、全ての推論は計算であるとするホップズの思想に言及してから、論理計算を自ら基礎づけようと試みた。
 ライプニッツは、自分の壮大な計画が3つの大きな構成要素により成り立つと考えていた。まず、適切な記号を選ぶ前に、人間の知識を網羅した百科全書をつ くる。これが完成すれば、鍵となる考えを選びだし、それらに適切な記号を割り当てる。そうすれば、演繹の法則を、これらの記号の基本操作に変換することが できる。つまり、演繹法を一連の機械的操作に形式化でき、数学的証明の確実性に匹敵するくらい確かな結論を導くとこができる。ライプニッツはこれを、推論 計算機(calculus ratiocinator)と名づけ、今日的な記号論理に先鞭をつけた。
 哲学者の下村寅太郎は、「結合法論」が「推論を一種の計算に置換する代数的論理学の理念の誕生」と書いた。ライプニッツは、論理学と数学を、普遍論理な いし普遍数学と呼べる一般学問として把握すれば、アリストテレスから大きく前進できると考えた。ライプニッツが17世紀までの他の普遍言語の計画者と1線 を画し、20世紀の記号論理学の先駆者とみなされるのは、推論の演算や真
理の発見の道具として普遍言語を構想したからである。(リンク:ライプニッツの普遍言語計画)


ニュルンベルグからマインツ、そしてパリへ

 ライプニッツは結合法論を著した年に、ライプツィヒ大学から法学の博士号の授与を拒否されるという事態に直面した。ライプツィヒ大学では、法学博士号の 取得の序列により教員が任用される慣例になっていたため、20歳そこそこのライプニッツに博士号を認めることは、年長の博士号取得候補者の反感を招くこと になり、学部構成員の多くがかれの卒業延期に同意した。
 ライプニッツはそこでライプツィヒ大学を離れることを決め、1666年10月初めにニュルンベルグ小共和国のアルトドルト大学法学部に入学し、ライプ ツィヒ大学で仕上げた博士論文を提出した。この論文「法律における紛糾せる事例」(Disputatio de casibus peplexis in jure)は1666年11月に出版され、1667年2月22日に審査員の全員一致によりライプニッツは法学博士号を取得した。ニュルンベルグの文部大臣 は、ライプニッツがアルトドルト大学に止まることを望み、速やかに教授として任用することを保証すると述べたという。しかし、ライプニッツは、大学人とし て歩む機会を辞退してしまう。
 大学では自身が抱く夢を実現できないと見極めたのかどうか。それとも、貴族の庇護を得てより高い社会的名声を得る機会を求めたのか。ライプニッツの父の 親族には、1600年に爵位を得たパウル・フォン・ロイプニッツという人物がいたが、子宝に恵まれず爵位を世襲できずに生涯を終えた。ただ、ライプニッツ 家はその紋章を、その後も使い続けていた。ライプニッツ自身が爵位を得たことを立証するものはないが、晩年の手紙ではフォン・ライプニッツの名と紋章を使 用している。
 ライプニッツは、アルトドルフを離れてニュルンベルグで錬金術師のグループと数ヶ月間関わり、1667年11月末にフランクフルトに住まいを移した。こ の頃までに、ライプニッツは優れた政治家であったヨハン・クリスティアン・フォン・ボイネブルク男爵(Johann Christian von Boineburg)と出会う。この出会いから、かれは裕福な貴族をパトロンにして、自らの学問の探究者と法学の見識で現実の問題に対処する実践家を両立 させる道を歩もうとする。
 ボイネブルク男爵は、1664年までマインツの選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルン(Johann Philipp von Schonborn)の宰相を務め、その長女は選帝侯の甥のシェーンボルン男爵に嫁入りしていた。ライプニッツはボイネブルクの勧めでマインツに赴くこと を決め、マインツ選帝侯に献じるために、旅の途中で「法律の学習と教授の新方法」(Nova methodus discendae docendaeque jurisprudentiae)を草した。かれはそこで、法律を哲学的に分析し、洞察力と実務能力を習得するための学習課程を記した。
 これによって、ライプニッツは選帝侯から、宮廷判事ヘルマン・アンドレアス・ラッサーを補佐して、ローマ民法に基づく「法彙集(Corpus juris)」を改訂する仕事を与えられ、さらに1670年の夏に所領の高等控訴院の顧問官に任命された。ライプニッツはラッサーを手伝いながら、ボイネ ブルグが抱える様々な仕事の助言者となり、外交使節としての役割も担った。
 ライプニッツがボイネブルグに随って1669年8月にシュヴァルバッハ温泉を訪れた時、英国の天文学者クリストファー・レン(Christopher Wren, 1632-1723)とオランダの科学者クリスティアン・ホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629-1695)による物体の衝突の実験に関する論文に触発されて、「新物理学仮説」(Hypothesis phisica nova)の執筆を思い立った。ライプニッツはホッブズを研究して、1671年に「具体的運動論」(Theoria motus concreti)および「抽象運動論」(Theoria motus abstracti)という2つの相補的論文を著して、名前のイニシャルG. G. L. L.だけを付して、ロンドンの王立協会とパリの王立科学アカデミーに送付した。この頃までのライプニッツの名前は、Gottfredo Guilielmo Leibnuzio Lipsenfiであった。
 ライプニッツはこれらの論文で、無限に分割可能な連続体の問題を取り上げ、ガリレオの弟子のカヴァリエリ(Bonaventura Cavalieri, 1598-1644)が1635年に著した「連続な不可分量の幾何」を念頭において、物体の運動について論じている。これらの論文をきっかけに、ライプ ニッツは英国王立協会の事務局長ハインリッヒ・オルデンブルグ(Henry Oldenburg)や王立科学アカデミーの事務局長のジャン・ガロワ(Jean Galloys)や王立図書館司書の幾何学者ピエール・ド・カルカヴィ(Pierre de Carcavy, 1600-1684)と文通を始め、ホイヘンスにも論文の著者の名前が知られるようになった。ライプニッツは、カルカヴィに宛てた手紙の中で、自分が考案 した計算機のことを初めて紹介している。
 ライン河畔のマインツは、30年戦争で欧州最大の強国になったフランスの脅威に戦後も晒されていた。ボイネブルグとライプニッツは1670年8月に、フ ランスの領土拡張の矛先をかわすために、フランスにエジプトを攻略することを薦める「エジプト計画」を構想し、ライプニッツは1671年にその内容を検討 していた。しかし、1671年12月にフランス国王ルイ14世は選帝侯に、オランダを攻撃することを通告してきた。ボイネブルグはこの計画をなんとか阻止 すべく、ライプニッツに計画を仕上げるよう督促し、1672年1月20日に書簡をルイ14世に送付した。フランスの外務大臣はこの書簡に興味を示し、詳細 を聞く用意がある旨を伝えてきた。ボイネブルグは3月4日にライプニッツを派遣すると返答した。
 こうして、ライプニッツはルイ14世に謁見するためにフランスに赴くことになり、3月19日に従者1人を伴ってマインツを出発した。ライプニッツが出発 する直前に、妹アンナ・カタリーナ・レフラーの訃報が届いていた。かれらは12日後にパリに到着したが、時すでに遅し。フランスと同盟を組んだ英国の チャールズ2世がオランダ攻撃の口火を切り、フランスも続いて軍勢を送り込んだ。このため、ライプニッツがルイ14世に謁見して、エジプト計画の建白書を 手渡して、詳細を説明するという任務は無意味になった。しかし、ライプニッツは和平会議の開催を画策し、エジプト計画の建白を諦めなかった。かれはその後 半年以上かけて、知り合いの哲学者アントワーヌ・アルノー(Antoine Arnauld, 1612-1694)を通じて、外務大臣シモン・アルノー・ド・ポンポンヌとの会見を求めたが、自らエジプト計画の詳細を説明する機会は訪れなかった。


ホイヘンスとの出会い

しかし、学術と文化の中心地だったパリを訪れたことが、26歳のライプニッツの才能を開花させる。17世紀の数学は、代数表記が体系化され、デカルト (Rene Descartes、1596-1650)とフェルマー(Pierre Fermat、1601-1665)が、座標で点を2つの数字で表現する方法を示し、幾何学を代数に還元する試みに勢いがついていた。ライプニッツは 1672年の夏に王立図書館司書の数学者カルカヴィと出会い、真空や計算機の設計について話し合うようになった。
 フランス王立科学アカデミーの前身は、マラン・メルセンヌ(Marin Mersenne, 1588-1648)神父が、1934年に自宅で開設した数学者の学会であり、カルカヴィはメルセンヌの死後この学会の論文を審査し会員間の情報交流を 担っていた。カルカヴィは、1662年に39歳で他界したブレーズ・パスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)の友人であり、当時の数学の先端事情に通じ、パスカルが証明した気圧と真空の存在やパスカルの計算機についても理解していた。ライプ ニッツは自分の計算機の設計にカルカヴィが関心を示したことから、その試作機の製作に取り組むことになる。
 ライプニッツは1672年の秋に、当時パリに住んでいたホイヘンスを訪問した。ホイヘンスはオランダ人だが、メルセンヌ学会と深い関わりをもち、振り子 時計の発明や土星の輪の発見などの業績により、優れた科学者として名声を得ていた。ホイヘンスは1666年にフランス王立科学アカデミーの設立計画と組織 化を委嘱され、王立図書館の中に仕事場を与えられていた。ホイヘンスは、ライプニッツがカヴァリエリの著作を読んで無限級数の知識があることを知り、三角 形数の逆数からなる無限級数の和を求める問題を与えた。そして、英国オクスフォード大学ののジョン・ウォリス(John Wallis, 1616-1703)の「無限算法」(Arithmetica infinitorum)とベルギー神父のグレゴリー・サン・ヴィンセント(Gregory St. Vincent)の「幾何学考」(Opus geometricum)を読むように勧めた。
 

クリスティアン・ホイヘンス

 ホイヘンスが与えた問題は、1/1+1/3+1/6+1/10+・・・1/(n(n+1))/2+・・・であった。ライプニッツはAB=1の長さをもつ 線分について、AC=1/2,AD=1/3,AE=1/4という数列を考え、隣り合う各項の差が、BC=1/2,CD=1/6,DE=1/12,EF= 1/20になることを確認して、BC+CD+DE+EF・・・=ABに他ならないことを見いだした。すると、1/2+1/6+1/12+1/20+・・・ =1になるので、1/1+1/3+1/6+1/10+・・・=2が導ける。
 この求和の方法で、AB=1,AC=1/3,AD=1/6,AE=1/10,・・・という数列を用いると、BC=2/3,CD=2/12,DE= 2/30,EF=2/60,・・・となり、2/3+2/12+2/30+2/60+・・・=1から、四角錐の逆数の総和である1+1/4+1/10+ 1/20+・・・=3/2も得ることができる。ライプニッツはこの拡張性が高い求和法を独創的かつ一般的と考えたが、ホイヘンスやガブリエル・ムートンは これらの解を導く別の方法をかなり前に考案していた。
 1672年11月16日になって、マインツ選帝侯の甥でボイネブルグの娘婿であるメルヒオール・フリードリヒ・フォン・シェーンボルンが、ボイネブルグ の息子フィリップ・ヴィルヘルムを伴って、パリにやってきた。ライプニッツはこれに先立ち、ケルンを開催地とする和平会議を提案するために、ルイ14世に 謁見を願う書簡を起草していた。ネルヒオール・ショーンボルンは選帝侯の代理として、和平交渉に派遣されヴェルサイユ宮殿でフランス王に拝謁できたが、ラ イプニッツは同席することが許されなかった。
 それから暫く経った12月15日に、ライプニッツの庇護者ボイネブルグ男爵が卒中のため、突然他界した。一行はそれでもパリに止まり、英国政府に対して 同じ提案をするために、1673年1月21日にドーバー海峡を渡り24日にロンドンに到着した。ライプニッツはロンドンでオルデンブルグを訪ね、携えてき た木製の計算機を2月1日に開催される王立協会の例会で公開する手筈を整えてくれるように依頼した。ホイヘンスはオルデンブルグに、この計算機が有望な研 究だと評した手紙を送ってくれていた。計算機は完成していたわけではなかったが、ライプニッツは王立協会における最初の実演を首尾良く成し遂げることがで きた。(リンク:ライプニッツの四則演算計算機)
 しかし、その2週間後には一行は、マインツ選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルンが2月12日に逝去したことを知らされた。ライプニッツの 一行は、オランダを経由してマインツに戻る予定だったが、選帝侯が亡くなったことで、オランダ行きは中止になった。自分の庇護者を相次いで失ったライプ ニッツは、パリに戻ることを決めた。かれはホイヘンスから与えられた問題の解法を見いだしたことを、王立協会の例会で英国の数学者に伝えたところ、それが 新しい発見ではないことを告げられて愕然とした。ライプニッツは4月19日に王立協会の会員に選出されたが、自分の知識不足を痛感していた。
 かれは1673年4月にボイネブルグ男爵夫人から息子の教育を監督する仕事を与えられ、17歳の男爵フィリップ・ヴィルヘルムとパリで同居することに なった。そこで、ライプニッツは再びホイヘンスを訪ねて助言を求めた。ホイヘンスは、出版したばかりの振り子運動の研究を解説した自著「振り子時計 (Horologium oscillatorium)」をライプニッツに贈り、パスカル、ジェームズ・グレゴリー、ルネ・フランソワ・ド・ソリューズの著作を読むように勧めた。


微分積分の誕生

 パスカルは晩年に円錐曲線やサイクロイドの面積、重心、回転体の体積を求めるために、「無限小線分の総和」および「無限小面分の総和」としての定積分を 捉え、独自に無限小解析の基礎を確立していた。パスカルは、半径aの円の4分円周をx軸の周りに回転してできる半球の表面積が、2πa2だという解を導び いていた。ライプニッツは1673年春に、パスカルが相似の三角形を使って計算を進めたことに着目し、相似の関係y ds=n dxが「無限小の総和」を 表していることに気づき、微積分を発見する糸口をつかんだ。
 ライプニッツが微分記号と積分記号を導入したのは1675年だが、この時点で∫y ds=∫n dxの両辺に2πを掛けて得られる2π∫y ds=2π∫n dxを、円x2+y2=a2に応用してn=aになると、2π∫y ds=2π∫a dx=2πax2になることに気づいていた。さらに、ライプニッツは、パスカルのサイクロイドの切片の求積から、無限小幾何学における最初の重要な定理を 発見するヒントを得た。これは積分を有理関数の積分に置換し、被積分関数を級数で表し、項別に積分することによって値を求めるので、「変換定理」と呼ばれ ることになった。ライプニッツは1674年の夏に、ホイヘンスとオルデンブルグにこの発見を伝えた。
 ライプニッツは、積分変換公式を用いて、円(x−1)2+y2=1の4半分の面積を求めた。

π/4=1─1/3+1/5ー1/7+1/9ー1/11+・・・、

 π/4は、半径が1/2の円の面積になる。「=」の右側は無限級数で、1を分子にする奇数の分母で構成された分数を交互に加減することによって、無限の 全体を有限の部分により明示している。この加減算は無限に続くが、計算をどこで辞めても、正解に近い値を得ることができる。級数の項の数が10だと、小数 点8桁の値は0.76045990になり、1,000万の項があれば0.78539816というπ/4の本当の値になる。ライプニッツは、面積と変化率を 求める数学的操作が、互いに逆の関係にあり、加算と減算あるいは乗算と除算が互いに逆になることと同じだと理解した。
 π/4=1─1/3+1/5ー1/7+1/9ー1/11+・・・とπ/8=1/(1・3)+1/(5・7)+1/(9・11)+・・・は同じことだが、 ライプニッツはブラウンカーによる双曲線の求積を、級数1/(2・4)+1/(6・8)+1/(10・12)+・・・=1/4log2とみなし、円と双曲 線の関係を見いだした。
 ライプニッツは、円や双曲線の面積を定積分に還元し、それを無限級数の形で近似値を求める方法を示すことができた。これによって面積を、幾何学的な方法 ではなく、算術的方法で機械的に求めることが可能になった。
 ライプニッツは、そうして基本概念を方程式で表現する適切な記号を、これらの計算のために考えるようになった。ライプニッツは1675年10月に、「微 分(differential)」と「積分(integral)」の言葉を導入し、無限小の量を示すために、差分を表す記号としてd (difference)を選んだ。そして、無限小どうしの比を、dy/dxで表現した。無限小はどんな正数よりも小さく、0よりは幾分大きい。dxは、 無限に小さいxの断片だということになる。
 ライプニッツは1675年10月の原稿で、曲線を含む図形の面積を「非常に細い長方形の面積y・dxを、端から端までつめ込んで、全部の面積の和を求め る」という操作を表現するために、Sを縦長にした記号を使うことにした。そうして、∫y・dxという公式が生まれた。積分の∫はラテン語の和を表す summaの頭文字である。
 ライプニッツは1673年以来、曲線を含む図形の面積、曲線の長さ、重心の求め方と逆接線問題について研究を重ねていた。そして、1675年11月から 新しい方法で様々な問題に取り組み、接線の決定法さえ与えられれば、求積法の全てをひとつの論証法で証明できることを確かめた。(リンク:ライプニッツの 微分積分)


パリからハノーバーへ

 ライプニッツはパリに滞在中に数々の偉業を成し遂げたが、ボイネブルグの息子は勉学に意欲を示さず、教育の責任と報酬の問題でボイネブルグ家との間で軋 轢が生じ、1674年9月13日に若き男爵の母親によって解雇されていた。ただ、ライプニッツがフランクフルトにいた頃から、かれを雇うことを望んでいた 人物がいた。ハノーバーのヨハン・フリードリヒ公爵は1669年末にライプニッツをハノーバーに招聘したが、かれはマインツ選帝侯の宮廷に仕えることを望 み断っていた。ライプニッツはその後、フリードリヒ公に自分の論文を送り、侯の興味に応えて書簡をやりとりしていた。そして、フリードリヒ公は1673年 4月25日付けの手紙で顧問官に任用したい旨を、改めてライプニッツに伝えてきた。
 ライプニッツは1675年の初めにハノーバー公に書簡を送り、自分が設計した計算機のことやパリにおける数学の研究活動について説明し、人類の利益のた めに科学と技術の領域における研究の自由を得ることが望みであると返答した。ライプニッツが微分積分の記号を見いだして様々な問題に適用していた1676 年の初頭に、フリードリヒ公から1月27日付けで顧問官に正式に任ずる招請状が届いた。さらに2月28日付けで俸給の支給が1月1日付けで開始するので、 すみやかにハノーバーに着任せよという君主の意向が伝えられた。
 ライプニッツにとってパリは、この都に居住あるいは訪れる多くの数学者や哲学者と親しく交わることができ、それを通じて最良の成果をあげることができる 場所だった。ライプニッツはパリ王立科学アカデミーの有給会員の資格を得ることを望み、5月24日までパリに滞在する許可を得た。ホイヘンスのようにアカ デミーで職を得ることができれば、ハノーバーに移ってもパリを随時訪れて、優れた学者たちと交流を続けることができる。6月になってもライプニッツはパリ を離れなかった。フリードリヒ公は7月に顧問官の仕事に加えて公の図書館の責任をライプニッツに委ねることを告げ、旅費を支給して出発を迫った。
 ちょうどこの時、ライプニッツとニュートンは互いに無限級数の活用法について何を発見したのか探り合うようになる。どちらも問題の解は示すが、核心とな る方法は隠して、書簡をやりとりした。しかし、王立アカデミーの外国人会員になる願いはかなわず、ライプニッツは1976年10月4日、日曜日の朝にパリ を旅立った。ロンドンに1週間ほど滞在してオルデンブルグに改良した計算機を見せ、王立協会でニュートンの手稿「解析について」(De analysi)の内容を調べて、自分の微分法とは異なっていることを確認した。そして、ロッテルダムからオランダに入り、各地の哲学者や数学者を訪問し た。その間、ハーグに最も長く滞在し、余命わずかだったスピノザ(Baruch Spinoza, 1632-1677)と道徳と神学の問題、とりわけ神の存在論的証明について長時間語り合った。
  ライプニッツは1676年12月の暮れにハノーバーに到着した。かれはこれを境に、再びパリもロンドンも訪れることはなかった。ライプニッツの良き理 解者だったフリードリヒ公の元で、かれはロンドンやパリに匹敵する科学アカデミーをドイツにも設立する計画を立てた。ライプニッツは1678年2月に「普 遍言語」(Lingua generalis)を表して普遍言語の概要を記し、科学アカデミーに協力者を組織化して普遍的記号法と百科全書を完成させることを目論でいた。そして、 この原資を稼ぐために、ライプニッツは鉱山の採掘が冬でも継続できる風車を利用した排水機を提案する。採鉱現場では水車で水を汲み上げていたので、水の流 れが凍る冬は採鉱が中断されていた。しかし、このプロジェクトは5年後に挫折してしまう。1680年1月にフリードリヒ公が外遊先のアウグスブルグで急逝 し、公の弟エルンスト・アウグストがハノーバー公になった。(リンク:ライプニッツの普遍言語計画)
 エルンスト・アウグスト公は、ライプニッツの才能は認めるものの学問的な話題にはほとんど関心を示さなかったが、公妃ゾフィーはライプニッツの良き理解 者になった。ライプニッツは1685年にブランシュヴァイク=リューネブルグ家の歴史の編纂を提案し、終身枢密顧問官の地位と旅費と専属の秘書を与えられ た。ライプニッツはブランシュヴァイク家の起源についていくつかの重要な発見をし、1692年にはハノーバーに選帝侯位をもたらす交渉で功績をあげ、 1696年に枢密法務顧問官に任命された。これは副首相に次ぐ地位であった。しかし、エルンスト・アウグスト選帝侯はその2年後の1698年1月23日に 逝去した。


ベルリン科学アカデミー創設と晩年の数奇な運命

 ハノーバー選帝侯の地位を嗣いだ長男のゲオルグ・ルートヴィヒは、ライプニッツの活動にほとんど関心を示さず、ただブランシュヴァイク=リューネブルグ 家の歴史を早く完成させるように諫め続ける人物だった。その一方で、ベルリンのブランデンブルグ選帝侯に1684年に16歳で嫁いだ息女のゾフィー・シャ ルロッテは、その母ゾフィーと同様にライプニッツにとってかけがえのない理解者になっていた。ゾフィー・シャルロッテは1697年10月にベルリンに天文 台を建設することを発案し、その情報を得たライプニッツは科学アカデミーの設立を即刻提案することができた。
 ライプニッツは、ライプツィヒ大学の政治哲学教授のオットー・メンケが1682年に「ライプツィヒ学報」(Acta Eruditorum)を創刊して以来論文を発表し続け、かれの微積分記号を使う学者による数学的成果も目に見えて増加するようになった。
 とりわけスイスのヨハン・ベルヌーイ(Johann Bernoulli, 1667-1748)は、ライプニッツの微積分を欧州に広げる上で大きな役割を果たし、フランスの伯爵ギョーム・フランソワ・アントワーヌ・ロピタル (Guillaume Francois Antoine de L'Hospital, 1661-1704)が1696年に出版した「無限小解析」はライプニッツの功績をパリの数学者に再認識させることになった。この最初の微積分の教科書 は、18世紀になっても何度も版を重ね、ライプニッツの記法が英国以外の欧州で急速に浸透することになる。
 ライプニッツは1700年の初めに、パリ王立科学アカデミーの会員に選出された。そして、1700年3月19日に、ブランデンブルグ選帝侯はベルリン天 文台と科学アカデミーの設立を認可し、7月11日にライプニッツをベルリン科学アカデミーの会長に任命した。かれは、この時ゴットフリート・ヴィルヘル ム・フォン・ライプニッツという貴族姓を公式文書に記した。ブランデンブルグ選帝侯は1701年1月18日に、プロイセン王フリードリッヒ一世となり、ゾ フィー・シャルロッテはプロイセン王妃となったが、王妃は1705年に37歳で他界した。ライプニッツは晩年には、ウィーンでも科学アカデミーの創設に奔 走することになる。
 ライプニッツは1703年に「0と1だけの記号を使う2進法算法の説明」を学士院紀要に発表し、こう書いた。「数年来、わたしは10ずつ進む方法のかわ りに、2ずつ進む方法を使っている。単純きわまりないこの方法が、数の学問の完成に役立つことを発見した。数字は『0』と『1』しか使わない。そこで 『2』は『10』と書かれ、『2が2つ』の『4』は『100』と書かれ、『4が2つ』の『8』は『1000』と書かれる」 (リンク:ライプニッツの2進 数の発見)
 母堂のハノーバー公妃ゾフィーは、イングランド王ウィリアム一世の孫娘であり、ハノーバー公爵家がプロテスタントのキリスト教を信奉していた。イングラ ンド王ウィリアム三世とアン王女の嫡男グロスター公が1700年8月に9歳で亡くなってから、ゾフィーの長男ゲオルグ・ルートヴィヒ公に王位継承権がめ ぐってきた。ウィリアム三世が亡くなると、アン王女が王位を継承し、女王の崩御の後でルートヴィヒ公がイングランド国王になることを英国議会が承認した。 ゾフィーは1714年6月に他界し、アン女王はその2ヶ月後に逝去した。そして9月には、ルートヴィヒ公がジョージ一世としてイングランド王になった。
 ライプニッツは、ゾフィーとその子孫を王位継承者としてウィリアム三世に指名させる工作に積極的に関わったが、ジョージ一世はブランシュヴァイク= リューネブルグ家の歴史をハノーバーで書き上げるように命じ、ライプニッツの英国行きを拒んだ。ニュートン自身を含む英国数学界は1713年から微積分発 見の先取権をめぐり、ライプニッツを露骨に批判するようになり、この争いは英国と大陸の対決の様相を呈していた。ライプニッツは宮廷吏官として英国に渡 り、ニュートンと渡り合ってこの問題にけりをつけることを切望していた。皇太子妃キャロライン(カロリーネ)を通じジョージ一世を説得しようとしたが、そ の要望が受け入れられることはなかった。
 ハノーバーに置き去りにされたライプニッツは痛風を悪化させて苦しみながら、1716年11月14日、土曜日の午後10時にハノーバーの自宅で息を引き 取った。享年70であった。かれは歴史編纂のために欧州中を旅し、ライプニッツは自分が書いた手紙の控えをとりながら、生涯に1万5,300通以上の手紙 をやりとりした。文通をした人物は、1,100人近いと言われる。広い交友関係を築き、数学、哲学、法学で名声に浴し、数々の外交交渉に携わった偉人の葬 儀は、かれが40年勤めた宮廷の知人は誰も参列せず、秘書にしてライプニッツの最初の伝記を書いたヨハン・ゲオルグ・エックハルト、唯一の相続者で妹の息 子フリードリッヒ・シモン・レフラーをはじめとするごく少数の人びとによりノイシュテット教会で行われた。

 ライプニッツが書き残した10万ページにおよぶ資料の大部分は、幸いハノーバーの図書館で無傷のまま保管されていた。これらの自筆資料は図書館の司書に より、詳しく調査され、1889年に「書簡集」そして1895年に「手稿集」にまとめられた。ライプニッツの研究や実像が、哲学者や数学者によって研究さ れ、20世紀になって数々の業績を評価する書物が登場するようになった。
 ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで、1899年にライプニッツの講義を始めたバートランド・ラッセル(Bertrand Russel, 1872-1970)は、1900年に最初の哲学書として「ライプニッツの哲学(The Philosophy of Leibniz)」を出版した。この書物はライプニッツの哲学全体を批判的に解説したものだが、「結合法論」によってライプニッツが数学的論理学の創始し たことを評価した。そして、「全ての述語は主語の概念の中に含まれる」ことを見抜いて、アリストテレスの三段論法の欠陥をいくつも見つけ、論理で形而上学 を基礎づける哲学者の中で、ライプニッツほど構文から実在世界の推論を最も明晰に引き出した哲学者はいないと記した。


参考文献

  • E. J. Aiton「LEIBNIZ--A Biography」Adam Hilger Limited 1985: 邦訳「ライプニッツの普遍計画ーバロックの天才の生涯」渡辺正雄、原純夫、佐柳文男 訳、工作舎 1990
  • Reinhard Finster, Gerd van den Heuvel「GOTTFRIED WILHELM LEIBNIZ」Rowohlt Taschenbuch Verlag GmbH, Reinbek bei Hamburg 1990: 邦訳R・フィンスター、G・ファン・デン・ホイフェル「ライプニッツーその思想と生涯」沢田 充茂 訳、シュプリンガー・フェアラーク東京 1996
  • Martin Davis「The Universal Computer」W. W. Norton & Company 2000: 邦訳「数学嫌いのためのコンピュータ論理学」岩山知三郎 訳、コンピュータ・エージ社 2003
  • 河田直樹「世界を解く数学」河出書房新社1999
  • Gordana Dodig-Crnkovic「HISTORY OF COMPUTER SCIENCE」(http://www.mrtc.mdh.se/publications/0377.pdf P11-12
  • Georg Henrik von Wright「LOGIK, FILOSOFI OCH SPRAK」Soderstrom & Co. 1975: 邦訳「論理分析哲学」服部裕幸 監修、牛尾光一 訳、講談社学術文庫 2000
  • 佐々木能章「ライプニッツ術」工作舎 2002
  • バートランド・ラッセル「西洋哲学史3」市井三郎 訳、みすず書房1970










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